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間宮林蔵

〔ま〕の著名人 間宮林蔵 松井秀喜
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プロフィールバー ◆〔間宮林蔵〕のプロフィール。
俗称・筆名 間宮林蔵
本名 倫宗(ともむね)
生誕 1844年(安永19年)生まれ、父庄兵衛、母クマ
死没 1844年(天保15年)江戸の自宅で没、65歳
出身地 茨城県つくばみらい市 
最終学歴 村上島之丞に師事、伊能忠敬に測量技術を学ぶ 
職業 探検家、測量技師、幕府役人となり苗字帯刀を許された 
ジャンル 測量、探検 
略歴、
主な活動

1787年(天明7年)8歳、寺子屋に通いだす、14歳算術習う
1795年(寛政7年)地元の岡堰工事で工事出張中の幕府役人に才能を認められ江戸に出て、村上島之丞の弟子となる
1799年(寛政11年)20歳村上島之丞の従者として初めて蝦夷地に渡る
1800年(寛政12年)21歳函館で伊能忠敬と師弟の約を結ぶ, 普請役雇となる
1803年(享和3年)24歳役人として東蝦夷地、南千島の測量に従事する
1807年(文化4年)28歳ロシア軍艦とシャナ島で交戦、徹底抗戦を主張するも撤退
1808年(文化5年)29歳第1回樺太探検松田伝十郎と、7月第2回樺太に行き越年する
1809年(文化6年)30歳間宮海峡を発見、アムール河を遡りデレンで清国役人と会見する
1811年(文化8年)32歳江戸に帰り「東韃地方紀行」等の報告者幕府に提出、5月伊能忠敬を訪ね以後測量を学ぶ、国後でゴローニン捉えられる
1812年(文化9年)33歳松前獄舎にゴローニンを訪ねる蝦夷地の測量を続ける
1817年(文化14年)38歳 江戸にもどる 父庄兵衛死去、伊能忠敬に蝦夷資料を提供、40〜43歳の時、蝦夷地内部の測量を実施
1828年(文政11年)49歳シーボルトより小包み届くが幕府に届ける。シーボルト事件起こる
1829年(文政20年)50歳 隠密として長崎に下る
1832年(天保3年)53歳シーボルト著「日本」の中で間宮海峡が世界に紹介される
1836年(天保7年)57歳岩見の国・浜田で密貿易事件おき、この摘発の端緒を掴む
1844年(天保15年)65歳2月26日江戸の自宅で逝去する
記念館

銅像

間宮林蔵記念館
〒300-2335茨城県つくばみらい市上平柳64
TEL 0297-58-770
茨城県つくばみらい市上平柳専称寺境内にある生家近くの菩提寺、東京都江東区平野町本立院近くにある。 東京都が史跡指定にしている
 @つくばみらい市記念館に立つ Aつくばみらい市小貝川公園に立つB稚内宗谷岬に立つ  
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わをん  




生家に立つ間宮林蔵像

ロシア船に対する幕府役人

間宮林蔵について

  間宮林蔵は茨城県つくばみらい市上平柳(常陸国筑波郡上平柳村)の小貝川のほとりで、1780年(安永8年)に生まれる。江戸時代末期、樺太はユーラシア大陸と陸続きの半島と信じられていたが、間宮林蔵は樺太(現サハリン)からアムール川流域を探検し、樺太が島であることを発見した。後にシーボルトは樺太と大陸の海を《間宮海峡》と命名し、世界地図に唯一日本人の名前が載る海峡となった。
 間宮林蔵は伊能忠敬より測量技術を学び、忠敬が測量できなかった、北方領土の国後、択捉、樺太等の島々を探検し、日本地図全図の完成に尽力した。




間宮林蔵肖像(松岡映丘画)


 

間宮林蔵記念館の入場券
 
14歳の林蔵は数理の天才だった

間宮林蔵の生家を訪ねる

  間宮林蔵の生家は常磐高速道路・谷和原インターから8kmほどの所にある。2度ほど訪ねたが、辺りは田畑が残り、すぐ近くに利根川の支流である小貝川が流れている。生家から近い上流には大きな岡堰があり、河岸が公園になっており、間宮林蔵の銅像が立ち、公園・堰の遺蹟を見つめている。 

 この川が江戸時代はたびたび氾濫し、住民を苦しめた。水害に見舞われたとき林蔵少年は手伝い、効果的な方法を教え、その利発さが幕府役人村上島之允の目に留まり、弟子となり江戸で勉強する機会を得た。




間宮林蔵肖像(松岡映丘画)

 

生家近くの堰に立つ間宮林蔵像
     

間宮林蔵生家の内部
間宮林蔵生家近くの小貝川の堰


生家近くに記念館・菩提寺・墓がある

  間生家のすぐ脇に市立の間宮林蔵記念館がある。中に入ると間宮林蔵のすべてがわかる、中は広く、映像コーナーで林蔵の生涯が紹介され、ガラス張りの中に樺太探検の各種資料が展示されている。

 生家から5分強で菩提寺専称寺がある。寺の中に大きな杉の木がありこんもりとした小山の上に小さな墓がある。間宮林蔵の墓には2人の女性名が書かれている。林蔵は故郷の生家に帰らないので両親が嫁を決め一緒に住んでいたが、娘は林蔵に会うこともなく病を得て亡くなってしまう。これを哀れと思い墓に名前を刻んだのだと言われている。もう1人の女性は晩年江戸で林蔵が病をえた時、面倒を見た人だと言われている。

 林蔵は最後に帰った時、今後も、自分の生死も解らないので、菩提寺の住職にお金を渡し両親の供養と自分の墓を作るようお願いしている。




記念館内部)

 

記念館の林蔵像と菩提寺専称寺
     

故郷菩提寺の林蔵の墓
紹介記事


日本とロシア、諸外国との関係(江戸後期)

  間宮林蔵の生まれた頃 ロシアは極東に毛皮を求め、また太平洋側に進出するために、南下政策をとり日本の北方領土、蝦夷地に頻繁に出没した。江戸幕府は蝦夷地の防備と開発の必要を痛感し、田沼意次の時代、千島樺太含む蝦夷地探検隊を派遣し全域の調査を行った。 1786年(天明6年) 最上徳内を幕史として初めて択捉島に派遣した。

 1799年間宮林蔵は師・村上島之允の従者として初めて蝦夷地(現サハリン)に渡る、この年
伊能忠敬に函館で巡り合い師弟のちぎりを結び、測量技術をまなび、日本海岸、オホーツクを測量しウルップ島までの地図を作製した。
 
 1807年間宮林蔵が択捉島のシャナ会所に勤務していた時、ロシア軍艦ディアナ号の襲撃を受けた、その際、間宮林蔵は徹底抗戦を主張したが受け入れられず撤退した。後にそこに居合わせた幕史の多くが処罰されたが、林蔵は抗戦を主張したことが認められ処罰を免れた。

 1808年(文化5年)林蔵は 幕府の命による樺太調査隊に選ばれ、松田伝十郎と2人だけで樺太に渡る。アイヌの丸木舟で北進し6月下旬海峡入口のラッカ岬に到達、樺太が離島である推測ができたので宗谷に帰る。
 
 当時欧州では樺太は半島と思われていた。当時西欧の有名な航海者3人(仏人・ラ・べルーズ、英人ブロートン、露人クルーゼンシュテルン)は樺太は僅かに大陸とつながっていると誤断し、樺太は半島であると信じられていた。




樺太と大陸の間に間宮海峡がある


間宮林蔵 樺太からナムール川の奥地まで探検、樺太が
島であることを発見(1809年))

 間宮林蔵について書かれた本は沢山ありますが、作家・吉村昭氏の作品は緻密な調査の上で書かれているので、今回も氏の『間宮林蔵」を参考にしている

 1809年(文化6年)、第1回樺太探検の時、間宮林蔵は樺太が島であることの確証を得られなかったことを残念に思い、樺太の再検分を願い出て第1回帰着後1ヶ月の7月13日単身で第2回樺太探検に赴いた。 2度目の探検はアイヌ人、山丹人、 キリヤーク人の協力を得て樺太北端まで海峡を漕ぎ抜き、北緯53度15分のナニオーに到達し、樺太が半島でなく島である事を確認した。間宮林蔵は1人で現地人の部落で越冬し、更にキリヤーク人と共に対岸の大陸に渡り、黒龍江下流のデレンにあった「清国の出張所・満州仮府」に至り、清国役人と会見している。

 1年半に及ぶ林蔵の冒険は野宿を重ね、彼の体力は衰弱し、痩せこけ、凍傷で指を失い、その体を休めるのに時間を要した。同僚、上司の間では人間業では無いと話しあっていた。

 当時外国に渡ることは禁止されていたが、ロシア領と言われていた大陸が、実際は清国が支配していることを幕府に報告した。その結果、国禁の件は不問にされた。






北緯分解余話10巻、樺太・東韃靼地
方の種族の生活の様子を記した記録間
宮林蔵記念館蔵

作家・吉村昭氏の《間宮林蔵》の一節を引用する

『林蔵の樺太見分の旅は終わった。世界地図の上でただ一つ不明であった樺太北部の地図が、自分の手で完全に解き明かすことができたことに喜びを感じた。

 樺太の北端をきわめ、さらにアムール河河口からその北方に広大な海の広がりを見た林蔵は、樺太が半島などでなく、完全な離島であることを確認し、また清国側の唱える樺太と東韃靼との間にサハリンという島があるという説も、根拠のない説であることも知ったのである。

 さらに彼が海峡を渡って東韃靼に足を踏み入れたことは画期的な壮挙であった。海峡を渡ったことは、樺太が島であることを実証し、清国の出張役所の設けられているデレンに赴いたことによって、東韃靼と樺太の政治、経済の性格を知ることもできた。林蔵の調査によってアムール川流域は完全に清国領になっていて、樺太北部にもロシア側の影響は全く見られず、清国の支配にあることがあきらかになった。林蔵の得た知識は、地理学上のみならず幕府の北方経営に多くの利益をあたえることは確実であった』。

当時のロシアと中国の関係を吉村昭氏は次のように書いている
 ロシアはアムール川方面の領有をくわだて、清国と衝突した。両国は大兵力を注ぎ攻防を
繰り返したが,清国軍が優勢でロシア軍が敗退した。その後1689年両国間で結ばれた協定はアムール川流域は清国領と定めロシアは完全に手をひいた(林蔵がデレンに赴く120年前である)。以後清国はデレンに役所を置き各種族から貢物をとっている。

樺太が半島であった場合は大陸の一部となり中国領土となり、
島の場合は日本領土となる。従って間宮林蔵の発見は日本に大きな貢献となった。




間宮林蔵・吉村昭著



北蝦夷図説 安政2年木版で刊行され広く読まれ清国た

デレンの物々交換

ゴローニン事件起こる(ゴロブニン事件とも言われる)

 1811年(文化8年)ゴローニン率いるロシア船が水・食料等を求めて、国後島に現れる、船長以下7人と通訳を捉え松前に送り、取り調べる、奉行は徐々に彼らのに拘束を緩め、幕府に釈放を懇願した。幕府では北方領土に詳しい間宮林蔵を派遣、ゴローニンの真の意図を聞き出すべく北海道に向かう。

 林蔵は越冬する時にかかる壊血病に効く柑橘類等を提供し、長く話し込み彼らの目的を探るべく話し込んでいる。ゴローニン等は拘束が緩くなって来たとき、松前から脱走を図る(1812年)が再び拘束される。林蔵はゴローニン釈放に対し厳しい見方をしていた。

高田屋嘉兵衛の仲介でゴローニン事件は解決した
 幕府はリコルド艦長・ディアナ号の来航に備え、見解をロシア語にまとめていた。フォストフ大尉の独断による『日本襲撃事件行為』(1807年)は個人の行為でありロシア国とは関係ない、従って釈放するというもの。 ロシア船は国後島 トマリに現れる 、リコルド艦長はカムチャッカに拿捕していた高田屋嘉兵衛を上陸させ、ゴロ−ニン少佐ら八人の釈放を要求した。 日本側は謝罪書の提出、略奪品の返還を要求した。
 高田屋嘉兵衛はロシアの抑留地でリコルドと同居し、現地人とも同化し信頼を確保し、ロシアと日本との交渉に尽力した(司馬遼太郎の菜の花の沖参照)。函館で妥結しゴローニンは引き渡された。以後、日本とロシアの関係は沈静化した。

帰国後ゴローニンは日本を紹介する本・日本幽囚記を出版した
 ゴローニンはロシアに帰国後、日本での捕囚生活に関する手記を執筆し、1816年に《日本幽囚記》が官費で出版された。第1部・第2部は日本の捕囚生活の記録,第3部は日本及び日本人に関する内容である。 間宮林蔵については『大旅行家、学者として有名なばかりでなく、卓越した武人として名誉の者』と紹介している(吉村昭氏の「間宮林蔵」では井上満訳を紹介)。
 江戸末期の日本を紹介する海外の本は少なく「日本幽囚記」は日本に関する信頼のおける資料として評価されていた。日本にもオランダ商館長によりもたらされ、日本語訳出版された。
高田屋嘉兵衛もこの本を読んでいたという。




ロシアで発行されたゴローニンが掲載された紙幣


 

司馬遼太郎の菜の花の沖の主人公・高田屋嘉兵

伊能忠敬の弟子・間宮林蔵

  伊能忠敬の弟子といわれ、測量術を忠敬に学び、樺太探検に出かける前には伊能忠敬より遠メガネ や測量機等を分けてもらっている。吉村昭著の間宮林蔵では 詳細に二人の関係を書いている

・林蔵は樺太北より帰り、『東韃地方紀行、北夷分界余話』 に纏め幕府に提出、これが認められ昇 進した。

・林蔵は測地術において未熟と感じ江戸に帰った際に伊能忠敬を訪ね学んでいる。忠敬は温かく 迎え、忠敬は量程車(距離を図る道具)を使っての測定法を教える、これは箱車のようなもので 車の回転が歯車に伝わり、その目盛りで距離を測るものなれど、平でない地面、地面の濡れ、 砂地などでは誤差が生ずる、 麻縄、鉄鎖、なども使うが、足で測るのが良いという、忠敬の場 会、歩くことを専門にする従者を連れて行く、専門の歩き方は普段から一歩の長さを一定にする ように訓練している。林蔵の師・村上島乃丞も伊能忠敬に学び測量が格段に進歩した経過がある。

・象限儀 を用いて緯度を図り、1緯度28.2里(111km)とした、その場合北極星が恒星である ことを利用する。忠敬の測定はその誤差1/1000という精度を誇っていた。林蔵は忠敬の屋敷に 通い、忠敬が九州の旅に出かける前まで指導をうけている

・その後間宮林蔵は伊能忠敬が歩いていない蝦夷の全測量を自分の手で行い、地図を作成し忠敬に 提供し日本国全土の地図を完成させようと決意した。 まず松前から日本海側の西海岸を測量し江 差、岩内、小樽から幌内で越冬、宗谷から国後島、色丹、利尻、礼文等の島を測量した。江戸から連れて いった従者も厳しい測量や蚊の大群に襲われるので、耐え切れず江戸に帰ってしまう。測量具や野帳 等を背負い、アイヌにも持ってもらい林蔵は蝦夷北部から北方諸島も測量をして、伊能忠敬を喜ばせ た。

しかし、日本国全土の地図が完成する前に伊能忠敬は肺結核に侵され病没した。忠敬の死は日本国 全図が完成するまで秘された。林蔵は八丁堀・忠敬の家に同居し、日本全土の地図完成に協力した。忠 敬の孫や門人等と協力しあい、大図42枚、中図8枚、小図3枚の《大日本沿海輿地全図》が完成した。 後日、江戸城に登城、大広間にて老中,若年寄りの前で披露された。また伊能忠敬の死も公表され、葬 儀も行われ浅草源空寺に埋葬された。この間、間宮林蔵も親身になって力を尽くした。




伊能忠敬肖像





 

間宮林蔵が完成させた蝦夷図 クナシリ、
エトロフは勿論利尻、礼文等周辺の島も、
内陸部の河川も上流まで測量している

シーボルト事件(1828年)が起こる

 林蔵の樺太行きを推薦した天文学者・高橋景保が伊能忠敬の日本図、林蔵や最上徳内の樺太図をクルーゼンシュテルンの航海記その他と引き換えに地図を渡した疑いで、高橋景保は獄死、シーボルトは国外追放となった事件。シーボルトの多くの弟子(医者)も嫌疑をかけられた。

 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトはオランダ商館付けの医師、西洋医学の第一人者で日本に西洋医学を普及させるため特別に長崎市内に医学塾・鳴滝塾を許され多くの医師を育てていた。5年に一度将軍に謁見する商館長に帯同し江戸城に出府し将軍にも会っている。高橋景保をはじめ多くの開明的な人とも面識があった。

 ある日、天文家・高橋景保からシーボルトの手紙の中に、間宮林蔵宛ての手紙があると送付されてきた。林蔵は外国人からの手紙故、開けずに上司の勘定奉行に届けでた。これがきっかけとなりシーボルトと高橋景保の関係が調べられた。シーボルトが帰国に際し、オランダに荷物を送った。その船が台風により難破、その船荷の中に伊能忠敬が完成させた日本地図が発見された。日本地図は国外持出し禁止であったので、高橋景保は逮捕され獄死した。また通訳やシーボルトの弟子医師等が多く逮捕され多くの犠牲者が出た。吉村昭氏の「間宮林蔵」では事件の詳細が記述され、林蔵はシーボルトから送られた荷物を法に照らし届け出ただけなのに、世の中では「林蔵が密告し、高橋景保など多くの人を死に追いやった」と世間に冷たくみられる様子を事細かに紹介している。
 
シーボルトはオランダに帰国後、「ニッポン」という大書物・20分冊を発刊し、その中で『林蔵の韃靼海峡発見を持って学問上の大功績』と称え、同書に収めた高橋景保の日本辺界略図の翻訳図に、この海峡の発見者を「ストレート・マミヤ(間宮の瀬戸)」と書き入れ紹介している。間宮海峡は世界地図の上に日本人の名が示されている只一つの地点で間宮林蔵の名を不朽のものにした。 間宮林蔵はシーボルトによって有名になったのである。シーボルトから間宮林蔵や最上徳内の樺太図を見せられたロシアの探検家・クルーゼン・シュテルンが「われ日本人に敗れたり」と叫んだことはよく知られたエピソードである。




シーボルトの肖像


 


シーボルトの故郷ドイツ・ヴュルツブ
ルグの公園にたつシーボルトの胸像を
2019年春訪ねた

間宮林蔵は国防の専門家として幕府首脳に重用された

 間宮林蔵の晩年は北海道、樺太、中国、ロシア等の北方情勢に詳しい専門家として信頼され、徳川幕府の幕閣(老中、若年寄、外国奉行、勘定奉行等)から特命の仕事を命ぜられることが多くなった。この時代日本周辺には鯨が多く取れ、外国船が食料,水、船の修理等で日本各地に現れた、その度ごとに林蔵は調査を依頼されている。1830年代以降、北海道厚岸、茨城県那珂湊、函館、対馬等の外国船寄港問題、中国、韓国との密貿易事件で中国地方の浜田から薩摩まで隠密行動をした。特に北前船の浜田藩密貿易の摘発は林蔵の調査によりなされた。また伊豆七島の測量にも間宮林蔵が係わっている。

水戸藩主・徳川斉昭に愛され、蝦夷の水戸藩関与に協力した
  吉村昭氏の著書「間宮林蔵」によれば、幕末、水戸藩の徳川斉昭は自ら蝦夷地を支配したいと幕府に対し働きかけていた。間宮林蔵が蝦夷地で活躍した時代、東蝦夷は1799年松前藩から外し幕府の天領・直轄領とし、松前奉行が置かれ、江戸の役人が赴任していた。間宮林蔵もその1人であった。しかし1821年(文政4年)老中水野忠邦は蝦夷を松前藩に返還してしまった。林蔵は広大な蝦夷地を一藩が支配することは無理と考え幕府直轄とすべきという考えを持っていた。一方水戸藩の藩主徳川斉昭や家老・藤田東湖は将来蝦夷を治めたい構想を持ち、北方問題に詳しい間宮林蔵を招聘し、意見を聴取していた。しかしこの水戸藩の要望は実現しなかった。




水戸藩主徳川斉昭




北方領土とは!

    よく新聞、雑誌上で北方領土という言葉が使われている。北方領土とは何処を言うのだろうか? 北方領土とは歯舞群島、色丹(シコタン)島、国後(クナシリ)島、択捉(エトロフ)島の四島をいう。。

 間宮林蔵が樺太(現サハリン)が島であることを発見したのが
1809年、今から200年以上前である。当時島の南部にはアイヌ人が住み、北部にはキリヤーク人等が住んでいた。大陸は清国が支配していた。。

その後ロシアが進出し、江戸末期ロシアと日本の国境は1855年の日露和親条約によって千島列島の択捉島とウルップ島の間に定められた。が樺太については主張の違いにより国境を定めることができず、日露混在の地とされた。その後も紆余曲折があり、太平洋戦争後サンフラ島ンシスコ条約で日本は樺太・千島列島を放棄した。
(但し千島列島には北方領土は含まれない)
サンフランシスコ条約にはソ連は参加せず署名していない。この問題は今でも解決に至っていない。

 




出所:ウイッキペディア



間宮林蔵が間宮海峡を発見できたのはなぜ?

    間宮林蔵はどうして《樺太が島であることを発見できたのだろうか》という疑問を多く
頂いた。私なりに推察すると下記のような理由が考えられます。

1.欧州の探検家は大きな船でこの海峡にきたため、浅瀬で船も進まず、大陸と陸続きであると判断してしまった。 林蔵は小さな船で装備もなく浅瀬を進めたので大陸と樺太の間に海があることを発見できた。貧弱な装備が見方した。と池波正太郎の北海の猟人では言っている

2.厳しさが予想される故に探検に参加する日本人はなく、アイヌや地元民も同行を拒否した。そのような中、ノテトの酋長コーニが大陸の上流にある清国のデレンの役所へ供物を届けに行くという情報を得て、酋長に頼み込み同行の許可を得た。そんな幸運さが林蔵に味方し間宮海峡発見につながった。

3.間宮林蔵の強い探求心、好奇心があったからこそ、また寒さに耐える体力と異民族と交流できる人間性・語学力を持っていたが故に間宮海峡を発見し清国の役所があるデレンまでも行き、清国の役人も林蔵を歓待したのだ。

4.間宮林蔵には時の運があった。幕府はロシアの侵略に備え、樺太の全貌を知ることが求められていた。ロシアはこの時期ナポレオンのロシア進出に勢力を注ぎ、極東に力を注げなかった。そんな時に林蔵は清国の支配する大陸に渡った。後にロシアとの条約が締結され北方への脅威がなくなると、幕府もその警備を解き、林蔵たち北方探検家の任務もなくなってしまった。

5.1852年シーボルトは《ニッポン》を発刊し、間宮海峡を紹介した。1853年黒船で日本に来た米国のペリー提督も間宮林蔵や伊能忠敬が作成した日本地図を入手していたと聞く。




近間宮林蔵が描いた貢物を清国役人に差し出すイラスト


 

間宮林蔵のイラスト図(記念館)

東京の間宮林蔵・墓を訪ねる

    間宮林蔵の東京の墓が木場公園近くにあることを知り、iPADで間宮林蔵と声を入れたら墓のある場所が地図上に表示された。便利な時代だ。門前仲町と木場公園、清澄公園の三角形の真ん中あたりの平野2丁目交差点近くに立派な墓がある。故郷筑波の墓は先祖が小田原北条氏の家来筋とはいえ、破れこの地にすんだ農民故に墓も小さい。

 東京の墓は、立派で季節の花が添えられ、10坪強の立派な墓だ。すぐそばに東京都史跡指定の石碑があり、大正14年5月建つとある。近所の人に間宮林蔵の墓がそこにありますが、この近くに住んでいたのでしょうかと聞いたところ『さあどうでしょう』と笑って答える。墓石の文字は徳川斉昭が選したものという。晩年水戸家と係わりが強かった故と考えられる。

間宮林蔵は1844年江戸の自宅で65年の生涯を終えた。寺は江東区平野町の本立院にある

 師・伊能忠敬の立派な像が立つ深川の富岡八幡宮からも近く、この先には家康の愛妾・阿茶の局の墓や清洲庭園を造ったと言われる紀伊国屋門左衛門の記念碑、松平定信の墓、清澄庭園もあり、散歩がてら一緒に観光するとよい。




墓所近くに清澄庭園がある


 

江東区本立院の間宮林蔵墓所

参考にした資料
*間宮林蔵  吉村昭 講談社文庫
*間宮林蔵  つくばみらい市教育委員会 間宮林蔵記念館発刊
*北海の猟人 池波正太郎 短編集「炎の武士」の中の北海の猟人(間宮林蔵)

青木青眠 記
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