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阿久 悠 |
〔あ〕の著名人 | 青山剛昌 | 青木周蔵 |
相田みつを | 浅井慎平 | 阿久 悠 |
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◆〔阿久 悠〕のプロフィール。 |
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阿久 悠 |
〔あ〕の著名人 | 青山剛昌 | 青木周蔵 |
相田みつを | 浅井慎平 | 阿久 悠 |
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◆〔阿久 悠〕のプロフィール。 |
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◆阿久悠記念館は明治大学の地下階にある |
阿久悠は兵庫県淡路島(現洲本市五色町)に、1937年(昭和22年)に生まれれる。作詞家、小説家、放送作家、詩人と幅広い顔を持つ。淡路島の小学校、中学校、高校を卒業後、明治大学文学部に入学・卒業する。1959年(昭和34年)広告代理店宣弘社に入社、CM制作、コピーライターから放送作家をへて独立、作詞家として昭和のヒット曲を数々世に送り出す。 生涯作詞した曲は5000曲以上、ジャンルは幅広く、歌謡曲、演歌、アイドル歌謡曲、フォークソング、アニメ&CMソング等。代表曲は「また逢う日まで」「北の宿から」「UFO」「先生」「津軽海峡冬景色」「あの鐘を鳴らすのはあなた」「ざんげの値打ちもない」「舟歌」「五番街のマリーへ」など新しい歌謡曲に挑戦した。レコード大賞は最多の5曲・作詞賞受賞は7回受賞した。オーディション番組「スター誕生」は企画から審査員、歌手への作詞提供などアイドル歌手養成にも貢献している。 小説では直木賞候補にもなり、「瀬戸内少年野球団」は映画化されヒットした。菊池寛賞(45回)、紫綬褒章を受章している。2007年(平成19年)癌で逝去。明治大学アカデミーコモン(東京駿河台)地下1階に「阿久悠記念館」が開設されている。 |
東京・お茶の水駅から神田の本屋街に向かう駿河台に、明治大学の高層ビル・アカデミーコモンがある。エスカレーターで地下1階に降りると阿久悠記念館がある。入口に阿久悠の横顔写真と、詩が掲示されている。言葉も良いが字も味がある。 |
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![]() 阿久悠の詩と顔写真 |
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![]() 記念館入口とCDジャケット |
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◆味のある直筆原稿がウインドウ内に並ぶ 館内にはサインペンで書かれたオシャレな直筆原稿が並ぶ。 その特長は水性のサインペンで必ず表紙をつけ独特の文字で書き枠をつける。原稿の推敲跡は見せない、書き直すか、紙を貼りマスキングする。手書きにこだわり、フレッシュさを出す、タイトルは白抜き文字である。 |
◆記念館内にはレコード大賞の盾、トロフィーがいっぱい展示 館内中央には音楽賞のレプリカと盾が大きなウインドウの中に飾られている。レコード大賞のレプリカは12個あった。そのデザインは手彫の女体像にGRAND PRIXの年度が違うだけ皆同じである。ピンポンパン体操、雨の慕情、勝手にしやがれ、北の宿からなど懐かしい歌ばかりだ。20年間レコード大賞、作詞大賞などの賞を独占していたことが解る。作詞入門の本も3冊並び、昭和40〜50年代はまさに阿久悠の時代だった。 |
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![]() レコード大賞の盾 |
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◆自伝的小説《無名時代》を読む 阿久悠が書いた自伝小説『無名時代』を読んでみた。明治大学を卒業し広告代理店・宣弘社に入社した時から、ビートルズが来日(1966年)する頃までの青春時代のいろいろな出来事が書かれている。 |
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![]() 小説:無名時代 |
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館この小説のあとがきで悪友はこの時代、社会の中で常識的な安全を求めるより、「なんでもいいから、書く、発表する、ウエーブを期待する中に自己を泳がせたい」と思っていたと書く、つまり才能が見えなかったわけで、「外圧を受けて、自己の反応を確認するしかなかった時代、外圧が存在する場として、広告代理店に就職したことが実に幸いだった」と述べている 。
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◆阿久悠の少年時代 岩波書店発行の《瀬戸内少年野球団》と言う小説を読む。甲子園に出るための悲喜劇を描いたものだろうと想像していたが、阿久悠の小学生時代、太平洋戦争後のドタバタした時代の淡路島の漁村の出来事が面白おかしく描いている。出だしが「かぼちゃの花」という、長い詩で始まる、主人公は8歳の足柄竜太(阿久悠)、時は終戦間近の7月、かぼちゃが豊作の年は縁起が悪いと言われている、その南瓜が豊作の8月15日快晴から物語は始まる。主人公足柄竜太の詩が面白い。 と詩は延々と続き、広島への原爆投下に繋がる。 |
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![]() 瀬戸内少年野球団、岩波書店刊 |
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![]() ウイッキペディアより映画のポスター |
敗戦後の淡路島が舞台で、子供たちの繰り広げる喧嘩、初恋のほろにがさ、憧れの美人先生は夏目雅子、バラケツというガキ大将が突然歌い出す歌がおもしろい、この土地で古くから唄われているものか?、阿久悠の作だろうか? |
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![]() 淡路島にある瀬戸内少年野球団の銅像 |
◆個人新聞《YOU》を発刊し自分を鍛えた 阿久悠は《you》と言う個人新聞を4年間も発刊していた。しかも毎月8000部も刷っていた、この時代、個人発行の新聞でこの数字は驚くべきことだ、YOUはYOUNGのYOUを取ったもの、また阿久悠のYOUでもある。この個人新聞に小説「瀬戸内少年野球団」は毎月20枚2年間にわたり連載していた。
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◆伝歌謡曲の時代 「歌謡曲の時代」という文庫本が面白い。阿久悠の5000曲以上の歌を人模様と歌模様を7編に分け代表曲99曲を紹介している。エピソードや交流のあった作曲家、歌手の話し、社会・世相まで阿久悠の言葉で紹介していて読みごたえがある。 「歌謡曲という言葉が使われなくなってから久しい。歌謡曲という言葉が死後になったかというと、そうでもない。 |
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和と平成の歌の違いは! また阿久悠は言う、昭和と平成の歌の違いがあるとするなら、昭和が世間を語ったのに、平成では自分だけを語っている。それを「私の時代」というのかもしれないが、ぼくは、「私を超えた時代」の昭和の歌の方が面白いし、愛するということである。有視界の私の世界よりも、時代を貪り食いながら太ったり、きれいに化けたりしていく世界の方が大きい。その大きい世界から私に似合いのものを摘まみ出すのが、歌謡曲と人間との関りであったのである。だから僕は今もって、平成の人間には支えきれない重さと大きさに、歌謡曲はなってしまったのだと誇る事にしている。 流行歌と演歌と歌謡曲の違いは! 流行歌と歌謡曲は、人によって同義語と解釈するようだが、ぼく(阿久悠)は同じものであると思っていない。また演歌と歌謡曲も別のものだと、確信している。流行歌はおそらくポピュラーソングを直訳してそうなったのだと思う。ポピュラーが大衆的という意味ではなく、生まれては流れていく、それこそ流行の意味で使い続けられたら、もっと良かった。ぼくにしてみれば流行歌に自由はなかったのである。演歌となると、さらにそれに、様式化が加わり、時代を拒否する。 それに較べて歌謡曲は、定型や様式から解放され、逆にいえば、永久に伝統芸となりえない。常に生もののようなところがあって、それが魅力だった。洋楽的サウンドに日本的メンタリティの情緒の詞を付けたり、その逆にウエットなメロディに乾いた詞を付けることもある。はっきり洋とか和とかに分類せずに、常にどちらかがどちらかを取り込んんで、別なるものを創り上げるというのが、ぼくの思う歌謡曲である 歌謡曲の時代とは! 歌謡曲が活動するための餌はというと、時代である。歌謡曲は時代を食って色づき育つ。時代を腹に入れて巨大化し、妖怪化する。ぼく(阿久悠)はそう思っている。これを確信したことによって、ぼくは5千も6千もの歌謡曲の詞を書くことができた。 時代は美味しかった。特に1970年代は極上の味だった。食べても食べても、新しい味が次からつぎへと現れた。人間もまた、時代という衣をまとうことによって、少しだけ虚構の中で変身し、それがまた新しい時代の味となった。これが「歌謡曲」の時代である。「歌謡曲のない時代は不幸な時代である。歌謡曲よ目を覚ませ、餌を食え」と序論は結ぶ。 |
◆朝まで待てない -阿久悠の最初の作詞作品・昭和42年 この歌は阿久悠のデビュー作である。昭和42年11月に発売されヒットした。この作詞を頼まれた時、「その日の内に仕上げて欲しい」という注文だったと言う、故に「朝まで待てない」というタイトルになった。朝までにこんな詩を作り間に合わせ、ヒットさせた才能は凄い。
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◆歌謡曲の時代 歌もよう人もよう 阿久悠の作詞した代表曲
黄色に塗りつぶした曲はレコード大賞がらみ曲等です
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◆どうにもとまらない 物価騰貴 山本リンダがこの曲を歌ったのは昭和47年出会った。この年に田中角栄内閣が誕生、日本列島改造論を提唱した。株価は暴騰、石油ショックで物価も高騰、どうにもとまらまい曲も大ヒットした。この曲のタイトルは「恋のカーニバル」であった。レコーディングが終わってタイトルが平凡と思え、詩の最後の「どうにもとまらない」に変更した。このタイトルが運命を変え大ヒットし、昭和47年のレコード大賞作曲賞を受賞した。
◆ピンクレディのペッパー警部 昭和51年には田中角栄元首相がロッキード事件で逮捕された。その直後にこのペッパー警部が発売されたので、ロッキード事件を連想させ話題を呼んだ。一世を風靡したピンクレディの曲で、そのジェスチャーも衣装も飛んでおり、60万枚を売り、この年のレコード大賞新人賞を授賞した。その後もUFO,SOS,渚のシンドバット、ウオンティット等オリコンチャート上位を独占し、100万枚以上の売り上げを記録しピンクレディ旋風を巻き起こした。 |
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◆津軽海峡冬景色の誕生秘話 津軽海峡冬景色は昭和51年石川さゆりが歌い大ヒットした。しかしこの歌がヒットするまでの苦労話には涙がでる。阿久悠と作曲家三木たかしは18歳の透明な声の演歌歌手・石川さゆりに似合う歌は何かと12曲も作ったという。 1月〜12月の間、女の恋と季節を組み合わせ、日本各地を南から歌い込んで行く、日豊本線、琵琶湖、淡路島、伊那谷、横浜など良い歌も多かったが、でもヒットしない。最後の青森県の津軽海峡まできて、やっと大当たりし11月に発売され、翌年は日本レコード大賞歌唱賞、作詞大賞、日本歌謡大賞放送音楽賞など賞を総なめした。その歌は《津軽海峡冬景色》である。 上野発の夜行列車 おりた時から
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◆ヂュエット曲の定番 居酒屋 この曲が生まれた背景には、力の入れすぎたアルバムの中に息抜きが欲しい、もっと遊んで欲しいという注文を受け、男と女の掛け合い芝居のように、気楽に作った作品という。 そうね ダブルのバーボンを 今ほどチェーン店の居酒屋のない昭和57年、馴染みの居酒屋の下、会話の雰囲気が良く出ていて、大ヒットした。今でもカラオケヂュエット曲の定番になってしまった。五木ひろしと木の実ナナのコンビもいい。
◆舟唄・お酒が飲めなくなった阿久悠 お酒はぬるめの燗がいい、肴はあぶったイカでいいーーーで始まる八代亜紀のヒット曲だ。作詞者・阿久悠は酒と会話しているような飲み方が好きだったとか。この歌が出たのは昭和54年、阿久悠もこの頃はよく酒を飲んでいたが、その後、体全体に痒みが発生し酒が飲めなくなり、酒をいっさい止めたという。 しみじみ飲めばしみじみと、思い出だけが行き過ぎる しかし歌はヒットし、昭和54年の日本レコード大賞金賞を受賞した。この舟歌の大ヒットが、作詞者をして、酒を飲めなくした。これは酒のたたりだろうか? と結んでいる。
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◆また逢う日まで 阿久悠の所に送られてくる歌謡詩の90%以上が男と女の歌で、別れの歌には捨てた歌と捨てられた歌しかない。本当にそうだろうかと疑問に思った。そこで「また逢う日まで」という歌ができた。この歌は恋人同士が合意の上で鍵を閉め、また逢う日までと別れてゆく設定だ。 また逢う日まで逢える時まで この歌が昭和46年尾崎由紀彦が唄い大ヒットしレコード大賞と日本歌謡大賞をダブル受賞した。翌年選抜高校野球大会入場行進曲にもなった。
◆時代おくれ シンガー・ソングライターの河島英五のヒット曲に「酒と涙と男と女」と「時代おくれ」がある。「時代おくれ」も川島英五の作詞と思われているが、実は阿久悠の作詞である。 発売の1986年(昭和61年)はバブル景気の時で、「時代おくれの男になりたくない」という時代に、あえて「時代遅れになりたい」というのが、阿久悠の発想の素晴らしさだ。 目立たぬように はしゃがぬように 何か男心の琴線に触れるものがあり、最初は売れなかったが、じわじわと有線放送で聞かれ有線放送大賞をとり、枯れない木となった。
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◆傘ん中 船村徹との縁 船村徹の名前は昭和30年の「別れの一本杉」で知り、その15年後に阿久悠は本格的作詞家の活動を始めた。その時「美空ひばり、船村徹が確立した歌謡曲は書かない」というテーマを阿久悠はもった。権威への抵抗であり、仮想敵であったという。 時は流れて50年後、平成13年その船村徹と本格的に組み「傘ん中」「愛のメリークリスマス」「北物語」を作詞した。「傘ん中」は五木ひろしが歌い平成14年の日本作詞大賞を受賞し、過去最多の記録を更新する8度目の受賞となった。愛のメリークリスマスは五木ひろしと堀内孝雄が一緒に歌う、クリスマスソングであり演歌とは言えない、若い人が歌えるよい曲だ。
◆五番街のマリーとジョニーへの伝言 阿久悠は昭和48年春に「ジョニーへの伝言」を書き、秋に「五番街のマリー」を書いた。ペドロ&カプリシャスに加わったばかりの高橋梨子が共に唄いヒットした。曲の雰囲気やストリーが似ていてマリーとジョニーは関係があると思ってしまう。男は「昔一緒に暮らしたことのある五番街のマリーが心配で、見てきて欲しい」という。このくだりが男心を誘う。一方ジョニーへの伝言ではデイトの約束をしたのに約束の喫茶店で2時間待っても来ない、そこで女は誠意の限界と心得、きっぱりとジョニーを見捨て新たな人生に踏み出す。阿久悠はこの2人は全く関係ないという。 でも唄われた時が近く、町だと日本、街だと外国のイメージになる。雰囲気も似ているので2人を結び付けて考える。高橋真梨子のうたい方、表情も良く大衆が勝手解釈しヒットしたのも面白い。 ◆スター誕生で多くの若手歌手を誕生させた阿久悠 昭和の時代《スター誕生は若手歌手の登龍門》であった。昭和46年頃阿久悠はこの番組を企画、構成し、審査員をし、合格者をスターにするためのプランナーであり、作詞家でもあった。88組ものスターの卵を輩出し、歌手として有名になりヒット曲も多く提供している。 |
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◆あの鐘を鳴らすのはあなた 昭和47年3月この曲が発売され、和田アキ子はその年のレコード大賞最優秀歌唱賞を受賞した。 普通の歌手であれば1人の作詞家では続けられない。パターンが底をつき、何を書いても同じになってします。ところが和田アキ子はその都度その都度新しい形式に挑戦、これで決まり!と思うのだが、その次新しいものをぶっつけても、全部こなしてしまう。食っても食っても食いきれない感じがしている。大きく、未開拓の部分が多く素晴らしい歌手にめぐり逢えたと喜んでいる。 和田アキ子は身長172cmと大きい、当初3年間小さく見せようと仕組んできたが、
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◆歌謡曲との出会い-阿久悠が語る 終戦の時は8歳で、戦争に負けて良かったと半分思った。大きい声で歌を唄っても誰からも責められないから! 終戦まで音楽とは無縁だった。この世代の人は言葉に対して敏感で、妄想と推理の期間がうんと長かった。退屈しのぎに明解国語辞典をアトランダムに拾い読みし、自分なりの答えを出し、絵を描いていた。物書きとしては良き時代であっった。今の子供は画面にタッチするだけで通じてしまう、これは不幸である。 「歌とは時代の中で変装している心を探す作業である」愛も、幸福も、悲しみも、寂しさも、怒りも、痛みも何かの事情で隠れてしまっているのが現代ではないか? 少し化粧を落とし、少し脱いでみたら、そうすれば少し楽しく、少しのびのびと心が開けるんじゃないか、歌はそれをやれるはずだ」 歌謡曲はリアクションの芸術だ ◆阿久悠の作詞憲法 阿久悠は作詞の憲法を持っており15条よりなる、いくつか挙げてみると阿久悠の作詞姿勢が見えてくる。 1. 美空ひばりによって完成したと思える流行歌の本道と、違う道はないものであろうか
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◆作詞家になる人の適性検査? 阿久悠の「作詞入門」(初版は昭和47年出版)という本(岩波新書2013年版)を購入した。多くの方に読まれている本で、その冒頭には『誰でも作詞家になれるわけじゃない』とし25の適性テストがあるが、10ほどのテスト例を下記に記すが相当過酷なもので、ほとんどの人がプロの作詞家にはなれないだろう。 @ 詞以外のもので、例えば絵、写真、小説といったクリエイティブなもので、ほめ プロの作詞家を目指すには100点が要求される。 ◆作詞家 阿久悠流作詞法を読むと作詞だけでなく全ての企画に当てはまると思う、例えば何かの企画をする時、俳句や和歌を詠む時、写真を撮る時等にも応用できそうだ。 |
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◆阿久悠の恋愛論 阿久悠の歌に恋愛を唄ったものは数限りなくある。恋愛が死語になっている、恋愛がなくなると作家として書くものが半分になるという。阿久悠の恋愛論は興味深い。阿久悠の青年期までは恋愛は免許制であった。無免許で恋愛をしてはいけなかった免許とは何かと言うと、@教養講座としての文学を読むことだった。A文学を読まない人は人を思いやり、自分を制御することを知る人間講座の実地を学ぶかのどちらかであったが、今はどちらも知らずに「男と女がいた」だけ、だから恋愛はなくなった。面白く、厳しい見方だ。 ◆誰でも《東京物語》を持とうではないか! 作家、作詞家、映画監督など創作をする人は誰でも東京物語を書くべきでないか。 という持論を阿久悠は持っていた。昭和28年の小津安二郎の東京物語は有名だが東京とはなんで、東京をどう見ているかを書くと、百面体の東京が見えてくるという。阿久悠にも『東京物語』という歌がある。昭和52年に作詞し森進一が昭和52年の紅白歌合戦で歌っている。ネットで聞いてみた。 ◆参考資料 ・ 歌謡曲の時代 歌もよう人もよう 阿久悠著 新潮文庫 |
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青木青眠 記 |