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阿久 悠

〔あ〕の著名人 青山剛昌 青木周蔵
相田みつを 浅井慎平 阿久 悠

プロフィールバー 〔阿久 悠〕のプロフィール。
俗称・筆名 阿久悠
本名 深田公之
生誕 1937年(昭和12年)2月7日
死没 2007年(平成19年)年8月1日(70歳逝去)
出身地 兵庫県洲本市五色町鮎原(旧:津名郡鮎原村
最終学歴 明治大学文学部
職業 作詞家、放送作家、小説家、詩人
ジャンル 歌謡曲、文学
略歴 洲本市都志小学校、中学校卒業
兵庫県洲本高等学校卒業
明治大学文学部卒業
1959年(昭和34年)広告代理店・宣弘社(現・電通アドギア)へ入社
コピーライター、CM制作、放送作家、として活躍
1966年(昭和41年)宣弘社を退社、放送作家、作詞家、作家として活動始める。レコード大賞受賞曲最多の5曲、日本レコード大賞作詞
賞は最多7回受賞、日本作詞大賞は8回受賞(2014年現在)
1984年 阿久悠の小説「瀬戸内少年野球団」が映画化され、日本アカデミー賞、ブルーリボン賞作品賞等を受賞、又、テレビ放送もされ高視
聴率をとった。
1971年〜1983年の12年間スター誕生の企画・審査員をし、スター歌手を育てた。
2007年(平成19年)癌で死去、 生涯に5000曲以上の作詞をした。
  
 
受賞歴 ・日本レコード大賞、日本レコード大賞作詞賞等 多数
・第2回横溝正史ミステリー賞
・第45回菊池寛賞
・紫綬褒章
代表作 作詞:どうにもとまらない、舟歌、また逢う日まで、北の宿から、ピンポンパン体操、津軽海峡冬景色、UFO, 時の過ぎゆくままに、居酒屋、せんせい、ペッパー警部、五番街のマリー、宇宙戦艦ヤマト、時代おくれ、あの鐘を鳴らすのはあなた、ざんげの値打ちもない、契り、勝手にしやがれ、もしもピアノが弾けたなら、等多数。
小説・瀬戸内少年野球団 、無名時代
記念館 〇明治大学阿久悠記念館(神田駿河台1-1)、TEL03-3296-4329
〇兵庫県洲本市、高田屋嘉兵衛公園内に瀬戸内少年野球団の記念碑と野
球少年たちの銅像がある。

 
言葉・信条 〇夢は砕けて夢と知り、 愛は破れて愛と知り、 時は流れて時と知り、友は別れて友と知り
〇感動する話は長い、短いではない。3分の歌も2時間の映画も感動の密度は同じである。

 
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かきくけこ
さしすせそ
たちつてと
なにぬねの
はひふへほ
まみむめも
やゆよ
らりるれろ
わをん  
 
記念館入口にある阿久悠の横顔
 

阿久悠記念館は明治大学の地下階にある

 阿久悠は兵庫県淡路島(現洲本市五色町)に、1937年(昭和22年)に生まれれる。作詞家、小説家、放送作家、詩人と幅広い顔を持つ。淡路島の小学校、中学校、高校を卒業後、明治大学文学部に入学・卒業する。1959年(昭和34年)広告代理店宣弘社に入社、CM制作、コピーライターから放送作家をへて独立、作詞家として昭和のヒット曲を数々世に送り出す。

 生涯作詞した曲は5000曲以上、ジャンルは幅広く、歌謡曲、演歌、アイドル歌謡曲、フォークソング、アニメ&CMソング等。代表曲は「また逢う日まで」「北の宿から」「UFO」「先生」「津軽海峡冬景色」「あの鐘を鳴らすのはあなた」「ざんげの値打ちもない」「舟歌」「五番街のマリーへ」など新しい歌謡曲に挑戦した。レコード大賞は最多の5曲・作詞賞受賞は7回受賞した。オーディション番組「スター誕生」は企画から審査員、歌手への作詞提供などアイドル歌手養成にも貢献している。

 小説では直木賞候補にもなり、「瀬戸内少年野球団」は映画化されヒットした。菊池寛賞(45回)、紫綬褒章を受章している。2007年(平成19年)癌で逝去。明治大学アカデミーコモン(東京駿河台)地下1階に「阿久悠記念館」が開設されている。


 東京・お茶の水駅から神田の本屋街に向かう駿河台に、明治大学の高層ビル・アカデミーコモンがある。エスカレーターで地下1階に降りると阿久悠記念館がある。入口に阿久悠の横顔写真と、詩が掲示されている。言葉も良いが字も味がある。 

夢は砕けて夢と知り
愛は破れて愛と知り
時は流れて時と知り 
友は別れて友と知り
  
 入口脇の壁に阿久悠の代表作のジャケットが数百枚飾られ,いずれも良く知られている作品だ。
 
 館内に入ると、テーマ、発表年齢、作曲家、歌手名、曲名から阿久悠作品を視聴できる映像装置がある。ヘッドホンもよく、好きな歌、興味のある歌を聞くことができる。次の壁には明治大学出身音楽家の名前と略歴が書かれたプレートがある、古賀政男を筆頭に藤田まさと、宇崎竜童、阿木燿子など12人の名前が並ぶ、その中でも阿久悠は大学の地下に広い記念館があるのだから明治大学卒業生の中でも特別扱いだ。


   

阿久悠の詩と顔写真
 

記念館入口とCDジャケット
 
味のある直筆原稿がウインドウ内に並ぶ

 館内にはサインペンで書かれたオシャレな直筆原稿が並ぶ。 その特長は水性のサインペンで必ず表紙をつけ独特の文字で書き枠をつける。原稿の推敲跡は見せない、書き直すか、紙を貼りマスキングする。手書きにこだわり、フレッシュさを出す、タイトルは白抜き文字である。
 

記念館内にはレコード大賞の盾、トロフィーがいっぱい展示

 館内中央には音楽賞のレプリカと盾が大きなウインドウの中に飾られている。レコード大賞のレプリカは12個あった。そのデザインは手彫の女体像にGRAND PRIXの年度が違うだけ皆同じである。ピンポンパン体操、雨の慕情、勝手にしやがれ、北の宿からなど懐かしい歌ばかりだ。20年間レコード大賞、作詞大賞などの賞を独占していたことが解る。作詞入門の本も3冊並び、昭和40〜50年代はまさに阿久悠の時代だった。

   

レコード大賞の盾
 
 
自伝的小説《無名時代》を読む

 阿久悠が書いた自伝小説『無名時代』を読んでみた。明治大学を卒業し広告代理店・宣弘社に入社した時から、ビートルズが来日(1966年)する頃までの青春時代のいろいろな出来事が書かれている。
 主人公芥洋介(阿久悠)は昭和34年明治大学を卒業し、当時《月光仮面》というアニメを制作、ヒットしている宣友社に入社する。 その入社試験には定員6名に対し150名押し掛けたが、阿久悠はその難関を突破した。試験のテーマが幸いしたのだ。そのテーマとは「12月第1週発売の週刊朝日、アサヒ芸能、女性自身を想定して、トップ記事の企画を立てよ」というもので、時間は1時間半であった。芥洋介は、暮れの発売時期、媒体の特長、その年の事件、話題等を考慮し企画、しかも面白く感じさせるように書いた。芥洋介の得意とする問題だった。かくて阿久悠は広告宣伝会社に入社する。

   

小説:無名時代
 
 

 館この小説のあとがきで悪友はこの時代、社会の中で常識的な安全を求めるより、「なんでもいいから、書く、発表する、ウエーブを期待する中に自己を泳がせたい」と思っていたと書く、つまり才能が見えなかったわけで、「外圧を受けて、自己の反応を確認するしかなかった時代、外圧が存在する場として、広告代理店に就職したことが実に幸いだった」と述べている 

 

阿久悠の少年時代

 岩波書店発行の《瀬戸内少年野球団》と言う小説を読む。甲子園に出るための悲喜劇を描いたものだろうと想像していたが、阿久悠の小学生時代、太平洋戦争後のドタバタした時代の淡路島の漁村の出来事が面白おかしく描いている。出だしが「かぼちゃの花」という、長い詩で始まる、主人公は8歳の足柄竜太(阿久悠)、時は終戦間近の7月、かぼちゃが豊作の年は縁起が悪いと言われている、その南瓜が豊作の8月15日快晴から物語は始まる。主人公足柄竜太の詩が面白い
 
 日本負けたんや
 明日からは日本人は牛にされるんや
 鼻の穴塩でもんで輪を通されるんや
 車ひっぱらされるんや
 田圃耕させられるんや
 よう働かん奴は皮はいで障子紙や
 ぼくら子供は何やらされるんやろーーーーー

と詩は延々と続き、広島への原爆投下に繋がる。
 
 主人公の足柄竜太少年とその仲間が終戦から3年間、島内での出来事、例えば米軍人のジープ、教科書を墨で塗り消す、帰国軍人の悲喜劇、何の道具もないところから野球を始める、野球石器時代のこと、足長おじさんが野球道具を寄付してくれる。女先生・中井駒子と旦那が必死で子供たちに野球を教える、だが、隣町少年チームとの初試合はボロ負けする、戦後の混乱期に淡路島で必死に生きた人々の悲喜劇シーンが続く、最後は主人公の好きな幼馴染みの彼女(波多野武女)が去ってゆく所で物語は終わる。

 この阿久悠の小説が篠田正浩監督により映画化された、女主人公中井駒子に人気女優・夏目まさこ、竜太に山内圭哉、映画初出演の高倉健、岩下志麻、郷ひろみ、ちあきなおみ、島田紳助など錚々たる役者が出演し、ブルーリボン賞をとっている。後に続編が、作られ、テレビでも日産創立60周年番組として制作されている。この映画を是非見たいと思っているが、なかなかその機会がない。

   

瀬戸内少年野球団、岩波書店刊
 
 

 

 


ウイッキペディアより映画のポスター
 

 敗戦後の淡路島が舞台で、子供たちの繰り広げる喧嘩、初恋のほろにがさ、憧れの美人先生は夏目雅子、バラケツというガキ大将が突然歌い出す歌がおもしろい、この土地で古くから唄われているものか?、阿久悠の作だろうか?

 一でいっちゃん嫁もろて 
 二で二階へかけあがり
 三でサルマタずりおろし
 四でしっかり抱きよって
 五でゴロリと横になり
 六つムクムクやりおって
 七つなかなかぬけへんで
 八つやぱっりぬけへんで
 九つ子供に見つかって
 十でとうとうばれよった

  映画監督の篠田正浩は後付けでこんなふうに原作を紹介している。『これまでの戦争文学やノンフィックションは過酷な戦場での光景が語られてきた。しかし「瀬戸内少年野球団」の作者は一切のイデオロギーや理性から無縁の、自身の出身地である兵庫県・淡路島の港町に舞台を設定し、戦争というものの実態が戦後も終わらないことを提示してみせる。戦争の本質は戦後にならないと見えてこない、という主題さえ浮上しているのである。そして、その観察者に戦争の当事者である大人たちでなく、戦争の巻き添えになった少年の目を起用することで予想外のコトバが出現したのだ』。

  阿久悠が兵庫県立洲本高校に入学したとき、母校は第25回全国選抜高等学校野球大会(1953年・昭和28年)で甲子園に初出場し優勝するという幸運に出会う。その対戦記録を見ると中京商、浪商等の有名校を破って優勝している。この成功体験が阿久悠に野球小説書かせたのではないか。戦後の野球ブームは敵国・アメリカを友人にするほどの親和力を生み、今も続いている。メジャーリーグでの野茂英雄やイチロー、松井秀喜らの活躍を見るにつけ。野球は日米安保条約よりも確かな盟約を保障しているかのようだ。
 


 

 


淡路島にある瀬戸内少年野球団の銅像

 
個人新聞《YOU》を発刊し自分を鍛えた

 阿久悠は《you》と言う個人新聞を4年間も発刊していた。しかも毎月8000部も刷っていた、この時代、個人発行の新聞でこの数字は驚くべきことだ、YOUはYOUNGのYOUを取ったもの、また阿久悠のYOUでもある。この個人新聞に小説「瀬戸内少年野球団」は毎月20枚2年間にわたり連載していた。
 
阿久悠は言う『等身大の戦後史、つまり当時の少年の目の高さから見た戦後史を、現在の視点からの修正を可能な限り避けて、小説の形で書いてみたいと思っていた。そのためには誰の都合も考えなくても良い個人新聞の《YOU》はこれ以上ない場であった。最悪、自分しか読まないものであっても構わないという思い出で書いた』と。またプライベートペーパーの連載小説が目にとまって単行本となり、直木賞候補になり、映画にもなるという経路は、作品のサクセスストリーと言える。と阿久悠は述懐している。

 

伝歌謡曲の時代

 「歌謡曲の時代」という文庫本が面白い。阿久悠の5000曲以上の歌を人模様と歌模様を7編に分け代表曲99曲を紹介している。エピソードや交流のあった作曲家、歌手の話し、社会・世相まで阿久悠の言葉で紹介していて読みごたえがある。

 序にかえてで《妖怪としての歌謡曲》と題し阿久悠の歌に対する自分の哲学を書いている。抜を粋ここで紹介しよう。

「歌謡曲という言葉が使われなくなってから久しい。歌謡曲という言葉が死後になったかというと、そうでもない。

 俗説では、昭和の終わりとともに、平成の始まりと同時に消えたということになっている。ぼくは、その俗説を半分認めながら、その程度の理由でくたばってたまるかという思いを抱いている。歌謡曲というものはそんなひ弱なものではなく、時代を呑み込みながら巨大化してゆく妖怪のようなもので,めったなことでは滅びたりしない。むしろ昭和の人間なら、巨大化やら妖怪化やらを楽しめたのに、平成の人間の手には負えなくなったのだと考えた方がいいだろう」と。


   

 
 
和と平成の歌の違いは!
 また阿久悠は言う、昭和と平成の歌の違いがあるとするなら、昭和が世間を語ったのに、平成では自分だけを語っている。それを「私の時代」というのかもしれないが、ぼくは、「私を超えた時代」の昭和の歌の方が面白いし、愛するということである。有視界の私の世界よりも、時代を貪り食いながら太ったり、きれいに化けたりしていく世界の方が大きい。その大きい世界から私に似合いのものを摘まみ出すのが、歌謡曲と人間との関りであったのである。だから僕は今もって、平成の人間には支えきれない重さと大きさに、歌謡曲はなってしまったのだと誇る事にしている

流行歌と演歌と歌謡曲の違いは!

 流行歌と歌謡曲は、人によって同義語と解釈するようだが、ぼく(阿久悠)は同じものであると思っていない。また演歌と歌謡曲も別のものだと、確信している。流行歌はおそらくポピュラーソングを直訳してそうなったのだと思う。ポピュラーが大衆的という意味ではなく、生まれては流れていく、それこそ流行の意味で使い続けられたら、もっと良かった。ぼくにしてみれば流行歌に自由はなかったのである。演歌となると、さらにそれに、様式化が加わり、時代を拒否する

それに較べて歌謡曲は、定型や様式から解放され、逆にいえば、永久に伝統芸となりえない。常に生もののようなところがあって、それが魅力だった。洋楽的サウンドに日本的メンタリティの情緒の詞を付けたり、その逆にウエットなメロディに乾いた詞を付けることもある。はっきり洋とか和とかに分類せずに、常にどちらかがどちらかを取り込んんで、別なるものを創り上げるというのが、ぼくの思う歌謡曲である

歌謡曲の時代とは!

 歌謡曲が活動するための餌はというと、時代である。歌謡曲は時代を食って色づき育つ。時代を腹に入れて巨大化し、妖怪化する。ぼく(阿久悠)はそう思っている。これを確信したことによって、ぼくは5千も6千もの歌謡曲の詞を書くことができた。

 時代は美味しかった。特に1970年代は極上の味だった。食べても食べても、新しい味が次からつぎへと現れた。人間もまた、時代という衣をまとうことによって、少しだけ虚構の中で変身し、それがまた新しい時代の味となった。これが「歌謡曲」の時代である。「歌謡曲のない時代は不幸な時代である。歌謡曲よ目を覚ませ、餌を食え」と序論は結ぶ。

朝まで待てない -阿久悠の最初の作詞作品・昭和42年

 この歌は阿久悠のデビュー作である。昭和42年11月に発売されヒットした。この作詞を頼まれた時、「その日の内に仕上げて欲しい」という注文だったと言う、故に「朝まで待てない」というタイトルになった。朝までにこんな詩を作り間に合わせ、ヒットさせた才能は凄い。
   
   諦めて捨てたはずなのに
   恋は眠りを忘れさせる
   闇に向かってお前の名を呼ぶ
   今すぐ逢いたい朝まで待てないーーーーー

 

歌謡曲の時代 歌もよう人もよう 阿久悠の作詞した代表曲
阿久悠のレコード大賞関連曲、作詞家、歌手、話題になった51曲を掲載する

NO

西暦

歌名

歌手

受賞

作曲

1

42年11月

1967.11

朝までまてない

ザ・モップス

阿久悠のデビュウ作

村井邦彦

2

44年4月

1969.4

白いサンゴ礁

ズー・ニー・ヴー

父・お前の歌は品がいい と評

村井邦彦

3

45年1月

1970.1

白い蝶のサンバ

森山加代子

はっきり聞こえる早口言葉

井上かつお

4

45年10月

1970.10

ざんげの値打ちもない

北原ミレイ

-

村井邦彦

5

45年8月

1970.8

真夏のあらし

西郷輝彦

日本レコード大賞作曲賞

川口真

6

46年12月

1971.1

ピンポンパン体操

金森勢と杉並児童合唱団

日本レコード大賞童謡賞

小林亜星

7

46年2月

1971.2

また逢う日まで

尾崎紀世彦

日本レコード大賞、日本歌謡大賞

筒美京平

8

47年3月

1972.3

あの鐘をならすのはあなた

和田アキ子

日本レコード大賞最優秀歌唱賞、

森田公一

9

47年5月

1972.5

ミュンヘンへの道

ハニー・ナイツ

s47年映画・ミュンヘンへの道主題歌

渡辺岳夫

10

47年6月

1972.6

どうにもとまらない

山本リンダ

日本レコード大賞作曲賞

都倉俊一

11

47年7月

1972.7

せんせい

森昌子

日本レコード大賞新人賞

遠藤実

12

48年3月

1973.3

ジョニーへの伝言

高橋真理子

日本レコード大賞作詞賞

都倉俊一

13

48年5月

1973.5

コーヒーショップで

あべ静江

日本レコード大賞新人賞、

三木たかし

14

48年6月

1973.6

街の灯り

堺正章

日本レコード大賞作曲賞

浜圭介

15

48年8月

1973.8

わたしの青い鳥

桜田淳子

日本レコード大賞優秀新人賞、

中村泰士

16

48年10月

1973.10

五番街のマリーへ

高橋真理子

 

都倉俊一

17

49年4月

1974.4

さらば友よ

森進一

日本作詞大賞

猪俣公章

18

49年11月

1974.11

宇宙戦艦ヤマト

ささきいさお

宇宙戦艦ヤマト テーマソング

宮川泰

19

50年8月

1975.8

下宿屋

森田公一&トップギャラン

日本レコード大賞作曲賞

森田公一

20

50年8月

1975.8

時の過ぎゆくままに1

沢田研二

日本作詞大賞大衆賞、100万枚売る

大野克夫

21

50年12月

1975.12

北の宿から1

都はるみ

日本レコード大賞、日本作詞大賞

小林亜星

22

51年6月

1976.6

嫁にこないか

新沼謙治

昭和51年日本レコード大賞新人賞

川口真

23

51年8月

1976.8

青春時代

森田公一&トップギャラン

S52紅白で歌った

森田公一

24

51年8月

1976.8

ペッパー警部

ピンク・レディ

日本レコード大賞新人賞、60万枚売

都倉俊一

25

51年9月

1976.9

若き獅子たち

西城秀樹

日本レコード大賞歌唱賞

三木たかし

26

51年11月

1976.11

津軽海峡冬景色

石川さゆり

日本レコード大賞歌唱賞

三木たかし

27

52年5月

1977.5

勝手にしやがれ

沢田研二

昭和52年レコード大賞、作詞大賞

大野克夫

28

52年9月

1977.9

思秋期

岩崎宏美

日本レコード大賞歌唱賞

三木たかし

29

52年10月

1977.10

東京物語

森進一

S52紅白で歌った

川口真

30

53年3月

1978.3

狼なんか怖くない

石野真子

昭和53年日本歌謡大賞新人賞

吉田拓郎

31

53年7月

1978.7

シンデレラ・ハネムーン

岩崎宏美

日本レコード大賞金賞

筒美京平

32

53年8月

1978.8

たそがれマイ・ラブ

大橋純子

日本レコード大賞金賞

筒美京平

33

53年9月

1978.9

透明人間

ピンクレディ

S53売上上位6曲中4曲独占

都倉俊一

34

54年4月

1979.4

カサブランカ・ダンディ

沢田研二

昭和54年レコード大賞金賞

大野克夫

35

54年5月

1979.5

舟唄

八代亜紀

日本レコード大賞金賞

浜圭介

36

55年4月

1980.4

雨の慕情

八代亜紀

日本レコード大賞、紅白のトリ

浜圭介

37

55年9月

1980.9

酒場でDABADA

沢田研二

昭和55年レコード大賞金賞

鈴木キサブロウ

38

56年4月

1981.4

もしもピアノが弾けたなら

西田敏行

昭和56年レコード大賞金賞、作詞大賞

坂田晃一

39

57年7月

1982.7

契り

五木ひろし

日本レコード大賞金賞、日本作詞大賞

五木ひろし

40

57年10月

1982.10

居酒屋

五木ひろし&木の実ナナ

ヂュエット曲の定番となる

大野克夫

41

58年8月

1983.8

日本海

八代亜紀

s58日本レコード大賞特別金賞

大野克夫

42

59年6月

1984.6

瀬戸内行進曲(IN THE MOON)

クリスタルキング

映画・瀬戸内少年野球団主題歌

ジョセフ・ガーランド

43

59年8月

1984.8

北の蛍

森進一

日本レコード大賞金賞、日本作詞大賞

三木たかし

44

60年12月

1985.1

熱き心に

小林旭

日本レコード大賞作詞賞

大瀧詠一

45

61年4月

1986.4

時代おくれ

河島英五

白鶴酒造のCMソング

森田公一

46

63年9月

1988.9

港の五番町

上村次郎、五木ひろし

日本レコード大賞金賞、日本作詞大賞

彩木雅夫

47

平1年3月

1989.3

ダイヤモンドの鷹

竜童組

福岡ダイエーホークス球団歌

宇崎竜童

48

平2年2月

1990.2

花束

八代亜紀

平成2年レコード大賞作詞賞

服部克久

49

平6年1月

1994.1

花のように鳥のように

桂銀淑

日本レコード大賞優秀賞作詞賞

杉本真人

50

平成14年

2002

北の宿から(2)毛糸球の歌

広瀬光治

北の宿 明るい編み物の歌シャンソン

塩原博

51

平14年6月

2002.6

傘ん中

五木ひろし

日本レコード大賞作詞賞

船村徹

 黄色に塗りつぶした曲はレコード大賞がらみ曲等です

 

 

どうにもとまらない 物価騰貴

 山本リンダがこの曲を歌ったのは昭和47年出会った。この年に田中角栄内閣が誕生、日本列島改造論を提唱した。株価は暴騰、石油ショックで物価も高騰、どうにもとまらまい曲も大ヒットした。この曲のタイトルは「恋のカーニバル」であった。レコーディングが終わってタイトルが平凡と思え、詩の最後の「どうにもとまらない」に変更した。このタイトルが運命を変え大ヒットし、昭和47年のレコード大賞作曲賞を受賞した。

 

ピンクレディのペッパー警部

昭和51年には田中角栄元首相がロッキード事件で逮捕された。その直後にこのペッパー警部が発売されたので、ロッキード事件を連想させ話題を呼んだ。一世を風靡したピンクレディの曲で、そのジェスチャーも衣装も飛んでおり、60万枚を売り、この年のレコード大賞新人賞を授賞した。その後もUFO,SOS,渚のシンドバット、ウオンティット等オリコンチャート上位を独占し、100万枚以上の売り上げを記録しピンクレディ旋風を巻き起こした。


 
ジャケットをクリックするとYouTubeにリンクします


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ピンポンパン体操 歌のジャンルの広さに驚嘆 

 ピンポンパン体操は子供たちを楽しく体操させるための曲として「体育イコール変身」というコンセプトで小林亜星が作曲、昭和46年12月に発売され、翌年大ヒットしレコード大賞童謡賞を受賞した。後にこのCM巨匠小林亜星と組み、演歌調の「北の宿から」を出す。幼児のお遊戯歌から女心を切々と歌う演歌への変身は見事としか言いようがない。アニメソング「戦艦大和」も阿久悠作詞である。

編み物業界から反発された 北の宿から

 昭和50年都はるみに歌わせる依頼が入った。伝統的
な演歌だったら自分が作詞する必要はなく、演歌の匂い
がしない歌だと都はるみファンの期待を裏切ることに
なる。従って濃い演歌と薄い演歌にするのに苦労した由、
《女心の未練でしょうか》と問い詰めるところを、
《女心の未練でしょう》と自問の形にして演歌度をうす
めたのだという。

 あなた変わりはないですか
 日ごと寒さがつのります
 着ては貰えぬセーターを
 寒さこらえて編んでます
 女心の未練でしょう
 あなた恋しい北の宿

 この歌は都はるみの代表曲で昭和51年の日本レコード大賞と作詞家大賞を受賞した曲で昭和50年~51年の紅白で唄われた。阿久悠は「都はるみは神がかりの歌唱力を持ち,天岩戸の前で踊ったアメノウズメノミコトのイメージが強い」と言い、隠れた神を呼び戻す歌を唄わせてみたいと思いこの曲を書いたという。

 またこの歌のフレーズの中の《着ては貰えぬセーターを》という表現が編み物自体がマイナーな行為のように誤解されてしまったのか,淡谷のり子もTV]で」立腹し「大体ね、別れた男のセーターなんか編むんじゃないの、みっともない」と

 そこで阿久悠は明るい編み物の歌を作って欲しいという客の希望に応えて「毛糸玉
の歌」というシャンソンを後に提供したという。




 


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津軽海峡冬景色の誕生秘話

 津軽海峡冬景色は昭和51年石川さゆりが歌い大ヒットした。しかしこの歌がヒットするまでの苦労話には涙がでる。阿久悠と作曲家三木たかしは18歳の透明な声の演歌歌手・石川さゆりに似合う歌は何かと12曲も作ったという。

 1月〜12月の間、女の恋と季節を組み合わせ、日本各地を南から歌い込んで行く、日豊本線、琵琶湖、淡路島、伊那谷、横浜など良い歌も多かったが、でもヒットしない。最後の青森県の津軽海峡まできて、やっと大当たりし11月に発売され、翌年は日本レコード大賞歌唱賞、作詞大賞、日本歌謡大賞放送音楽賞など賞を総なめした。その歌は《津軽海峡冬景色》である。

  上野発の夜行列車 おりた時から
  青森駅は雪の中
  北へ帰る人の群れは 誰も無口で
  海鳴りだけをきいている
  私もひとり連絡船に乗り
  こごえそうな鴎見つめ泣いていました
  ああ津軽海峡 冬景色
 
 1人の歌手のために売れっ子の作詞家、作曲家が
 12曲も入れ込むのは稀だ! 石川さゆりがそれだけ
 の素質を持っていたからではないか、作詞家、作曲家
 、歌手が一体となった好例で
もある。

 

   


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ヂュエット曲の定番 居酒屋

 この曲が生まれた背景には、力の入れすぎたアルバムの中に息抜きが欲しい、もっと遊んで欲しいという注文を受け、男と女の掛け合い芝居のように、気楽に作った作品という

  そうね ダブルのバーボンを
  遠慮しないでいただくわーーー

 今ほどチェーン店の居酒屋のない昭和57年、馴染みの居酒屋の下、会話の雰囲気が良く出ていて、大ヒットした。今でもカラオケヂュエット曲の定番になってしまった。五木ひろしと木の実ナナのコンビもいい。

 

舟唄・お酒が飲めなくなった阿久悠

 お酒はぬるめの燗がいい、肴はあぶったイカでいいーーーで始まる八代亜紀のヒット曲だ。作詞者・阿久悠は酒と会話しているような飲み方が好きだったとか。この歌が出たのは昭和54年、阿久悠もこの頃はよく酒を飲んでいたが、その後、体全体に痒みが発生し酒が飲めなくなり、酒をいっさい止めたという。

 しみじみ飲めばしみじみと、思い出だけが行き過ぎる
 ことも、ほろほろ飲めばほろほろと 心がすすり泣いて
 いる ことも無くなったと言う。

しかし歌はヒットし、昭和54年の日本レコード大賞金賞を受賞した。この舟歌の大ヒットが、作詞者をして、酒を飲めなくした。これは酒のたたりだろうか? と結んでいる。




   


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また逢う日まで

 阿久悠の所に送られてくる歌謡詩の90%以上が男と女の歌で、別れの歌には捨てた歌と捨てられた歌しかない。本当にそうだろうかと疑問に思った。そこで「また逢う日まで」という歌ができた。この歌は恋人同士が合意の上で鍵を閉め、また逢う日までと別れてゆく設定だ。

  また逢う日まで逢える時まで
  別れのそのわけは話したくない
  なぜかさみしいだけ
  なぜかむなしいだけ
  たがいに傷つき すべてをなくすから
  ふたりでドアをしめて
  ふたりで名前を消して
  その時心は何かを話すだろう

この歌が昭和46年尾崎由紀彦が唄い大ヒットしレコード大賞と日本歌謡大賞をダブル受賞した。翌年選抜高校野球大会入場行進曲にもなった。

 

時代おくれ

 シンガー・ソングライターの河島英五のヒット曲に「酒と涙と男と女」と「時代おくれ」がある。「時代おくれ」も川島英五の作詞と思われているが、実は阿久悠の作詞である。

 発売の1986年(昭和61年)はバブル景気の時で、「時代おくれの男になりたくない」という時代に、あえて「時代遅れになりたい」というのが、阿久悠の発想の素晴らしさだ。
  
 阿久悠は「スタスタと大股で歩いた歩幅の真ん中あたりに、跨いではいけない大切なものがある」というのが創作の意図であるという。

  目立たぬように はしゃがぬように
  似合わぬことは無理をせず
  人の心を見つめつずける
  時代おくれの男になりたいーーー

 何か男心の琴線に触れるものがあり、最初は売れなかったが、じわじわと有線放送で聞かれ有線放送大賞をとり、枯れない木となった。
48歳でなくなった河島英五の代表作となって、人の心の中に生き続け唄われている。




   


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傘ん中 船村徹との縁

 船村徹の名前は昭和30年の「別れの一本杉」で知り、その15年後に阿久悠は本格的作詞家の活動を始めた。その時「美空ひばり、船村徹が確立した歌謡曲は書かない」というテーマを阿久悠はもった。権威への抵抗であり、仮想敵であったという。

 時は流れて50年後、平成13年その船村徹と本格的に組み「傘ん中」「愛のメリークリスマス」「北物語」を作詞した。「傘ん中」は五木ひろしが歌い平成14年の日本作詞大賞を受賞し、過去最多の記録を更新する8度目の受賞となった。愛のメリークリスマスは五木ひろしと堀内孝雄が一緒に歌う、クリスマスソングであり演歌とは言えない、若い人が歌えるよい曲だ。

 

五番街のマリーとジョニーへの伝言

 阿久悠は昭和48年春に「ジョニーへの伝言」を書き、秋に「五番街のマリー」を書いた。ペドロ&カプリシャスに加わったばかりの高橋梨子が共に唄いヒットした。曲の雰囲気やストリーが似ていてマリーとジョニーは関係があると思ってしまう。男は「昔一緒に暮らしたことのある五番街のマリーが心配で、見てきて欲しい」という。このくだりが男心を誘う。一方ジョニーへの伝言ではデイトの約束をしたのに約束の喫茶店で2時間待っても来ない、そこで女は誠意の限界と心得、きっぱりとジョニーを見捨て新たな人生に踏み出す。阿久悠はこの2人は全く関係ないという。

 でも唄われた時が近く、町だと日本、街だと外国のイメージになる。雰囲気も似ているので2人を結び付けて考える。高橋真梨子のうたい方、表情も良く大衆が勝手解釈しヒットしたのも面白い。

スター誕生で多くの若手歌手を誕生させた阿久悠

 昭和の時代《スター誕生は若手歌手の登龍門》であった。昭和46年頃阿久悠はこの番組を企画、構成し、審査員をし、合格者をスターにするためのプランナーであり、作詞家でもあった。88組ものスターの卵を輩出し、歌手として有名になりヒット曲も多く提供している。
例えば
 ★森昌子の「せんせい」
   おさない私が 胸こがし 慕い続けたひとの名は
   せんせい せんせい それはせんせい
 ★岩崎宏美の思秋期、
 ★森田公一とトップギャランの青春時代
 ★八代亜紀の舟唄、
 ★ピンクレディの「UFO」 
 ★石川さゆりの津軽海峡冬景色、
 ★都はるみの北の宿、
 ★森進一さらば友よ  等
 



 
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あの鐘を鳴らすのはあなた

 昭和47年3月この曲が発売され、和田アキ子はその年のレコード大賞最優秀歌唱賞を受賞した。
阿久悠は和田アキ子との関係をこんな風に書いている(作詞入門より)。
 1人の歌手がデビュー以来4年間、ほとんど1人の作詞家が作詞を受け持っているケースは珍しい。
ぼくと和田アキ子がそうである。デビュー以来「あの鐘を鳴らすのはあなた」まで8曲作詞している。

 普通の歌手であれば1人の作詞家では続けられない。パターンが底をつき、何を書いても同じになってします。ところが和田アキ子はその都度その都度新しい形式に挑戦、これで決まり!と思うのだが、その次新しいものをぶっつけても、全部こなしてしまう。食っても食っても食いきれない感じがしている。大きく、未開拓の部分が多く素晴らしい歌手にめぐり逢えたと喜んでいる。

和田アキ子は身長172cmと大きい、当初3年間小さく見せようと仕組んできたが、
「あの鐘を鳴らすのは--」では女性歌手がどこまで大きなテーマ、大きな曲を歌えるのか、スケールの限界に挑戦し、詞の内容も大きな愛をテーマにしたという。
 
 あなたに逢えてよかった 
 あなたには希望の匂いがする
 つまづいて 傷ついて 泣きさけんでも
 さわやかな希望の匂いがする
 町は今 眠りの中 あの鐘を鳴らすのは あなた
 人はみな 悩みの中 あの鐘を鳴らすのは あなた




   



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歌謡曲との出会い-阿久悠が語る

 終戦の時は8歳で、戦争に負けて良かったと半分思った。大きい声で歌を唄っても誰からも責められないから! 終戦まで音楽とは無縁だった。この世代の人は言葉に対して敏感で、妄想と推理の期間がうんと長かった。退屈しのぎに明解国語辞典をアトランダムに拾い読みし、自分なりの答えを出し、絵を描いていた。物書きとしては良き時代であっった。今の子供は画面にタッチするだけで通じてしまう、これは不幸である。
 
 高校生の頃からボンヤリと物書きになりたいと思いっていた。大学卒業後宣弘社という広告代理店にに入り、1964年の東京オリンピックの頃ラジオの台本を書き阿久悠の名を使い副業で物書きとしてスタートした。
 

 歌謡曲とはリアクッションの芸術だ。送り手がいかに意欲的で情熱的であっても、リアクッションがない限り何の価値もない。毎日何らかの跳ね返ってくることを祈り壁にボールを投げ続ける。その壁とは何か、時代の飢餓感だ、歌が飢餓の部分に命中した時、歌が時代を捉えたと言いヒット曲に繋がる。

「歌とは時代の中で変装している心を探す作業である」愛も、幸福も、悲しみも、寂しさも、怒りも、痛みも何かの事情で隠れてしまっているのが現代ではないか? 少し化粧を落とし、少し脱いでみたら、そうすれば少し楽しく、少しのびのびと心が開けるんじゃないか、歌はそれをやれるはずだ」

歌謡曲はリアクションの芸術だ
 送り手がいかに意欲的であり情熱的であっても、リアクションがない限りなんの価値も無い。今何が欠けているか、今何がほしいいのだろうか、その飢餓の部分にボールが命中した時ヒット曲が生まれる。

阿久悠の作詞憲法

阿久悠は作詞の憲法を持っており15条よりなる、いくつか挙げてみると阿久悠の作詞姿勢が見えてくる。

1. 美空ひばりによって完成したと思える流行歌の本道と、違う道はないものであろうか
3. そろそろ都市型の生活の中での人間関係に目を向けてもいいのではないか
5. 個人と個人の実にささやかに出来事を描きながら、同時に社会へのメッセージとすることは不可能か。
6 「女」として描かれている流行歌を「女性」に書きかえられないか
9  歌手を語りべの役からドラマの主人公に役変えすることも必要ではないか
12  七・五調の他にも、音的快感を感じさせる言葉数があるのではなかろうか
13  歌にならないものは何もない。例えば一編の小説、一本の映画、一回の演説、
 

 



作詞家になる人の適性検査?

 阿久悠の「作詞入門」(初版は昭和47年出版)という本(岩波新書2013年版)を購入した。多くの方に読まれている本で、その冒頭には『誰でも作詞家になれるわけじゃない』とし25の適性テストがあるが、10ほどのテスト例を下記に記すが相当過酷なもので、ほとんどの人がプロの作詞家にはなれないだろう。

@ 詞以外のもので、例えば絵、写真、小説といったクリエイティブなもので、ほめ
  られた経験のない人はマイナス
A 乱読家、雑学博士などの名称で呼ばれたことのない人はマイナス
B ギャンブル好きな人はマイナス
C 儲からなくていいという人はマイナス
D ホステスを不幸な女だと思い込んでいる人はマイナス
E メモをしなければ記憶に自信のない人はマイナス
F 1日の新聞から素材を5つ以上選べない人はマイナス
G 1日5時間以上の睡眠を必要とする人はマイナス
H 品物を見て、その原料や産地を一度も考えたことが
  ない人はマイナス
I 1日に5つの打合せ。2つの立会い、3つの創作、実働
  18〜19時間をこなすスタミナのない人はマイナス。

 プロの作詞家を目指すには100点が要求される。
 歌謡曲は教えたり教えられたりし書けるものではないということだ。
 阿久悠の考え方、発想法、姿勢、歩みを知った。作詞家になる方程式等ないし、
 あったしても古くてつかえない。 自分なりの方程式を自ら作らねばならない。
 

作詞家

 阿久悠流作詞法を読むと作詞だけでなく全ての企画に当てはまると思う、例えば何かの企画をする時、俳句や和歌を詠む時、写真を撮る時等にも応用できそうだ。
 
阿久悠の歌作詞法は
1)まずテーマを決める、その基本は歌の場合、社会の飢餓感あるもの、今一番欲しい
 もの、満たされないものは何か、飢餓と無いものとは違う。満たされないものを補っ
 てあげるのが歌の使命と考える。
2) 次に素材を選ぶ、詞になる素材、ならない素材という先入観を捨てて、詞にしてしま
 う。そして、詞の世界にまで高めて初めて人にみせるものができたと言える。
3) ストーリーを考える、次にストリーを考える。そして克明なスケッチを書く、
  原稿用紙一枚書くのも、2時間物の映画を作るのも制作工程に変わりはない。
4) 表現を考える  歌は1〜3番にするか、カメラは一つか多カメラか、誰の言葉で書く
 のか、ロケ地は日本か外国か等を考える。まさに映画や小説作りなどと同じなのだ。

   

 
 
阿久悠の恋愛論

 阿久悠の歌に恋愛を唄ったものは数限りなくある。恋愛が死語になっている、恋愛がなくなると作家として書くものが半分になるという。阿久悠の恋愛論は興味深い。阿久悠の青年期までは恋愛は免許制であった。無免許で恋愛をしてはいけなかった免許とは何かと言うと、@教養講座としての文学を読むことだった。A文学を読まない人は人を思いやり、自分を制御することを知る人間講座の実地を学ぶかのどちらかであったが、今はどちらも知らずに「男と女がいた」だけ、だから恋愛はなくなった。面白く、厳しい見方だ。

誰でも《東京物語》を持とうではないか!

 作家、作詞家、映画監督など創作をする人は誰でも東京物語を書くべきでないか。 という持論を阿久悠は持っていた。昭和28年の小津安二郎の東京物語は有名だが東京とはなんで、東京をどう見ているかを書くと、百面体の東京が見えてくるという。阿久悠にも『東京物語』という歌がある。昭和52年に作詞し森進一が昭和52年の紅白歌合戦で歌っている。ネットで聞いてみた。
  群れから離れた男と女が
  子羊みたいに 肌寄せあって
  どこかで忘れた青春のかざりもの
  さがしているような東京物語ーーーー と都会の淋しさが歌われている。
 
「私の東京物語」というコラムが東京新聞夕刊に連載されている。東京以外で育ち、東京に出てきて仕事をし、東京に住んだ人が、《思い思いの東京物語》を書いている。誰でも『自分なりの東京物語』を書いたら良いと思う。

参考資料

 ・ 歌謡曲の時代 歌もよう人もよう 阿久悠著 新潮文庫
 ・ 無名時代 阿久悠著  集英社
 ・ 作詞入門 阿久式ヒットソングの技法 阿久悠著 岩波書店
 ・ 瀬戸内少年野球団 阿久悠著 岩波書店
                           2020年4月記

青木青眠 記

 

 






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